プロニートの履歴書

色んなできごとに翻弄され、プロのニートになるまでの物語

7. Macbookで路上販売、そして飛ぶ

さて、日本に帰ってくると、3年の間にすべてが変わっていた。

留学というよりも、私は3年間ニューヨークで遊び倒した。遊ぶ以外は何もしていないと言ってもいい。ほとんどの時間を音楽に費やしたのだ。その遊学生活はビザの取得ができずに幕を閉じた。といっても、3年である。私の心はもうすでに日本人ではなかった。

自分が日本人であることも忘れていたし、日本?そういえば、どこか遠くにそういう国があったかもね、ぐらいの気がしていた。 

 

すっかりバタ臭くなってしまった私には、しばらく外から見ていた日本が身近なものには感じられなくなっていた。帰国して実家に帰り、何年か振りの家族と暮らし始めても、すぐにはその生活に馴染めなかった。

 

何年かぶりに祖父に会いに行くと、祖父は寝たきりになっていて、ベットから起き上がれずに、寝たままで言葉もなく、私の手を強く握りしめた。そのしわくちゃな手を見ていたら、私は自分のやりたいこと、やりたいことを!と、どれだけ自分のことしか考えてなかったんだろう…と、涙が溢れてきて止らなかった。

私はものすごく親不孝で、ずいぶん長いこと家族のことを想っていなかったのだ。そうして、親不孝だった自分を反省した私は、しばらく実家に留まることにした。

 

いくら実家暮らしとはいえ、何か仕事を探さなくては…と思っている私のところに、高校時代の親友が「職場の近くのカフェで人を募集してたよ。外国帰りの人がやってるみたい」と知らせてくれた。

電話をかけて訪ねてみると、確かにそこには外国帰りの人がいた。ボストン帰りのご夫婦で、親の土地にビルを建て、1階をテナントに貸し出し、2階でカフェと英会話教室を営んでいたのだ。奥さんの方は大学の非常勤講師で英語を教えていたので、奥さんがいない間のバイトを探していたのだった。

私が帰国して間もないことを話すと、すでにカナダから帰国したばかりの女の子を雇ったばかりだけど交代でバイトに入ってもいいよ、と快く受け入れてくれた。

 

 

しかし、働いてみるとカフェは死ぬほどヒマだったのである・・・。

外国からの旅行者や外人の英語教師らがたまに顔を見せるだけで、英会話教室の方は、これから北欧に住むことになるという主婦がひとりだけだったのだ。

私の仕事はたまに来る外人と世間話をするか、主婦の英会話の練習相手をするだけで、あまりにもお客さんが来ないので、ナオさんはこれからデザインスタジオも始めるつもりだという。彼は大学でアートを専攻していたのだ。私にもそのデザインの仕事を手伝って欲しいというので、バイト中のほとんどの時間はデザインソフトウェアの使い方を覚える時間になった。

 

 そんなある日、店主のナオさんは私にこう提案してきた。

「名刺を作って道で販売するのはどうだろう?」と。

彼の案は、遊び用の名刺デザインを考えて、夜の繁華街にラップトップとプリンタを持って行ってその場で名刺を作って売るというものだった。私にはそれはなかなかいいアイデアに思えた。お客さんが来ないので自分から人通りのあるところに行こうというわけだ。その場で作るというのも新しいし、これからデザインスタジオをやるという宣伝にもなる。 

そうして、私は覚えたばかりのイラストレーターで何十種類かの名刺をデザインし、ナオさんと彼の飼い犬のショコラを連れて、夜な夜な繁華街でラップトップを広げ、デザイン名刺を売ることになった。

 

夜の繁華街では、あちらではアクセサリー売り、こちらでは外国人の絵描きさん、その他諸々や酔っ払いたちがあちこちで交流して、ひとつのコミュニティを形成していた。日本にもストリートカルチャーはあったのだ。私たちは路上の売り場で自分たちの話をしたり、情報を交換したりして同じ夜を過ごした。新しいストリート仲間たちとの時間は、私にとって心地よいものになっていた。それに、名刺は思っていたよりも売れたのだ。

路上に座って商売をやっていると、道行く人らがよく声をかけてきた。何を売っているのかわからないというのもあっただろうし、仔犬目当てに話しかけてくる人も多かった。私はそれを何とも思わなかったのだけど、ナオさんはそう思えなかったようで、

 「こうやって道で俺らに声をかけてくるのは、俺らのことを下に見てるからなのかなぁ」と、夜の繁華街の片隅で呟くのだった。

正直、私は何と言っていいのかわからなくなった・・・。

彼は筋金入りのボンボンだったのだ。お金持ちの家に生まれ、外国に留学させてもらい、いい大学を出て、良いとこの子女の奥さんをもらい、親の土地でお店を経営している本物のお坊っちゃまだったのだ。同じように外国で暮らしたことがあっても、私とは少し経緯が違ったのだ…。

私は「そんなことないよ。犬もかわいいし、興味もって話しかけてくれてるだけだよ・・・」と答えることしかできなかった。

しかし、それからの彼はやる気力をなくしたようで、私も率先して「行こうよ!」と言う気にはなれなかった。やると言ったからには自分から進んでやらないと何にもならない、と言葉に出せないでいた。そうしてうやむやになっていった新しいビジネスは、自然にフェードアウトしていったのだった。

 

 

それにしても・・・、 

毎日がゆるい、春の陽気のようにうららかで、ユルすぎる実家での暮らしだった。家族と一緒に食べる晩ご飯も、見知らぬ芸人しか出てこないテレビ番組も、平和そのもので圧倒的に何かが欠けていた。 

私の地元とニューヨークでは人も暮らしも何もかも、ギャップが大き過ぎたのだ。おかしな話だと思われるかもしれないけど、そこに日本人しかいないことが、一種類の人種しかいない生活が私にはとても不自然なことのように感じていたのだ。

私は子供の頃からそうだった。学校に同じ服を着た同じ色の髪の子供たちがずらーっと並んでいる朝礼風景や教室も気持ち悪く見えていたのだ。

 

私が親孝行をしたいと思ってから、1年の月日が経とうとしていた。なんとなくこれではいけないような気がして、空いてる時間はテレアポのバイトをしたり、夜は近所のスナックでバイトをしたりして、ひとまずまとまったお金を作ることにした。

 

 

そうしてある日、私は家族に「後で引越し先を知らせるから、そこに荷物を送って」と、調べていた一番安い引っ越し屋さんの電話番号を渡して、バックパックひとつで飛行機に乗った。

行き先は東京である。

あっけにとられた母にとっては、前回に続いてまたふい討ちのような引越しになってしまったのだった。