プロニートの履歴書

色んなできごとに翻弄され、プロのニートになるまでの物語

13. ボタンを掛け違えてしまったブランド

さて、裏社会から脱出を図るため、いわゆる『まとも』な企業で働きたいと思った私は、唯一専門知識のあるアパレル産業へとの転職を決意した。

学生時代は服飾デザインの勉強をしていたり、一度アパレル企業に就職していたこともあって、業界にはそこそこ明るく、ブランクがあっても履歴書の服飾学校卒業の文字とその会社名は転職するには有利に働くだろう…と思ったのだ。 

 

 服飾系の学生にとって憧れの3大アパレル企業はオンワード、ワールド、イトキンと、それは企業の大きさそのままで(といっても、アパレル業界は裾野が広く、その3社さえも市場占有率は全体の1%もない)、もちろん私も学生の頃に憧れた会社で、むしろその3つ以外では働きたくはない…とさえも思っていたのだ。

 

そうして、その中のひとつが新しいブランドを展開するためのオープニングスタッフを募集しているのをアルバイト情報誌で見つけたのだった。大抵の場合、オープニングスタッフは数多くの人が採用されることが多いので、私も含めてその面接に集まった全国100名ほどはあっさり採用が決められる運びとなった。

 

私にとっては2度目のアパレル販売職である。

私が『まとも』な会社で働くことになったのは久しぶりのことだった。

  

 

私が働くことになったブランドは、最初からちょっと無理があった。

この『無理』にはそれぞれの思惑と希望が詰まっていた。そういう意味では間違っていなかったと思う。でも、その無理は日を追うごとに大きくなり、全国47都道府県の約50店舗展開を計画されていたものが、スタートして2ヶ月の間に20店舗は消え、残りの30店舗もまったく厳しい状況に追い込まれた。

 

全国のスタッフからもお客さんからも疑問の声が増え続け、運営している本社の営業達もが「どこにボタンの掛け違えがあったのか…」とこぼすほどだった。

そのボタンの掛け違えがあまりにも大きいので、毎日笑うしかなく、というか、接客業は笑ってさえいれば、どんなことでも乗り越えられる!と、私は身をもって学んだ。

 

が、

 

あまりの売り上げの立たなさにどの店舗からも悲鳴が聞こえ、オープン前日にテナント側からオープンを取り下げられる店舗や、少しおかしくなった店長やら、どういうわけか什器が倒れて怪我人までも続出した。

 

 

ことのはじまりはこうである。

 

昭和40年代には1階から屋上まで人々のアミューズメント的な位置を担っていた百貨店では、顧客の高齢化が進み、新たに若い客層を取り入れなければ百貨店の存続が危ない。百貨店の平場が賑わうようなブランドを作って欲しいと、『昔の平場をもう一度!』プロジェクトが発足されたのだった。そして、もともと繊維会社だったアパレル会社は百貨店の平場でブラウスから大きく発展していった企業でもあった。つまり、平場を盛り上げていった実績があったんでしょうね。40年ほど前に。

 

しかし、昭和な時は流れ、主要なターミナル駅にじゃんじゃん建つ電鉄会社系のファッションビルに客を奪われ、90年代には渋谷、原宿など街単位でファッションのブランド性が確立していった。多くの人は郊外に家と車を持ち、車で出かけられる郊外のモール型アウトレットが一家団欒の時代にも入っていた。

 

時すでに遅し、というか、ほとんど人のいない百貨店の婦人服売り場の4階や5階で、人が通ったとしても40代以上のミセスフロアに若者向けのシャツブランドを打ち出したのだ。これはもう単純に、そこに若者を呼びたかったんですね。

 

なので、最初に起こった問題はサイズ問題。

 

そのわずかな40代以上のお客さんが若者向けデザインの服を「あら、いいわね」と試着しても、若者の体型に合わせたサイズ感なので、ほとんどの人がサイズが合わない。大きめのサイズを選んでもキツい人が続出した。これは女性にとって超がっかりする出来事で、「小さめのサイズが入った!私まだまだこのサイズでイケるのね!」と思わせられたのなら結果は違ったものになったのかもしれないけど、どれを着てもキツい…というのは、ショック感だけが残る試着にしかならないのだった。それでは購買につながるわけもない。

 

そうして、どの店舗でもそのサイズ問題は勃発し、オープンしたばかりだというのに売り上げが立たない日々が続いた。どんなに売れないお店でもボウズ(売り上げがゼロ)は、いくらなんでも滅多に起こることではない。しかも、そこは名の通った百貨店で、3大アパレル企業が運営している新ブランドなのだ。

 

集められた全国の販売員と、その中でも店長たちの心労は尋常ではなかったようで、他の人よりも経験があるからこそ店長に選ばれている彼女たちのプライドは毎日ズタズタに引き裂かれ、近隣の店舗の店長ネットワークは瞬く間に結束していった。

 

そんなわけで私も半年足らずの間に、どんどん縮小、閉鎖されていく店舗を渡っては飛び、渡っては飛びと都内の3つの百貨店に飛び込むハメになった。百貨店にはそれぞれの特色と歴史的逸話も豊富で、それはそれは豊かな環境だったのですが、自分のいるブランドはどこまでいっても建て直す兆しさえも見えなさそうだった。

 

まったく思惑通りに進まないプロジェクトに本部は新たな計画を立てた。こんなに売れないのは販売員に足りない知識があるに違いない。勉強会を開こう!と、販売員が集められ、私たちは幾度となく勉強会へと参加させられることになった。

普通こういう場合、『販売』についての研修が開かれるケースが多いと思うのだけど、そこは元繊維会社である。その得意分野の繊維でシャツブランドを作っているのだから、研修の内容は『使われている素材についての知識』がメインとなった。それに、同じようなコンセプト、ターゲットの他のライバルブランドに比べても、本当に素材は良いものだったのだ。

 

 

ここでひとつだけ私がよかったなぁ…と思うのは、人通りが多くて、何もしなくても黙って売れる店舗というのもあって、そういう店の販売員は学ぶことが少ない。努力をしなくても売れていくのだから。何がよかったのか、悪かったのかを考えることも、気がつくことも少ないように思う。

 

それとは真逆で、売れない店舗にいると、商品の知識や人に伝えられる能力や提案、接客からディスプレイまで、人と商品の流れを敏感に判断していていかなくてはならない。持てるものすべてを投入してやっと売れるのだ。どんな状況に置かれても、売上を立てる店舗をその場で作り出すしかない。これはひと苦労である。そして、それが商売というものなのだ。

 

本気で転ぶプロジェクトというのもいいもので、何が起こるのかわからない毎日がドラマティックであることだけは間違いない。もし、それを楽しめれば、ですが。

 

 

 

そうして、そんな何ヶ月か経った頃、本当のボタンの掛け違えがどこにあったのかが明らかになる日がやってきた。

 

 

すべてのサイズが違ったのだ。

これは本当に違ったのだ。

 

デザインや仕様書の中に書かれているサイズよりもすべてが数センチ小さかったのだ。どうやら、中国の工場で使われていた定規が違った…という話だった。

 

 

もう誰にも止められそうにないすべりっぷりで、最終的に私は千葉にまで送られることになりそうだったので、東京の西の方に住んでいるのに中心地を超えて千葉まで通うこともないだろう…と考えを改め始めた。それに、時給1000円のアルバイトにそこまでの価値はもう残ってなさそうだった。もう崩れ落ちていくのは目に見えているのだから。

 

短い間にすごいドラマを見せられた気になった。スタッフを含め、百貨店の人から何から何まですべてが輝いてた。びっくりさせられたことは数あれど、嫌な思いをしたことはなかった。ただ、とにかくすべてが微妙な空気なのだ。どこか…そう、どこかボタンを掛け違えているようなそんな気分だった。 

 

 

そして、私がその場を去った後の経過を見守っていると、そのブランドはアウトレットへと直行の道を辿り、あっという間に消え去りました。

その後の百貨店は『デパ地下』という新ジャンルを見つけたようで、新たな展開を迎えているのはよくご存知だと思います。

 

 

私にはわからない。

どうやったらそんな大きなものが転んでいってしまったのか…。