プロニートの履歴書

色んなできごとに翻弄され、プロのニートになるまでの物語

14. 百貨店でのブラジルコーヒー

百貨店ライフをエンジョイしていた私が毎日楽しみにしていたのは社食だった。社食がある場所で働いたこともなければ、その価格の安さにも驚いたのだ。最初に配属された渋谷の百貨店では、隣の店舗のおばちゃんに「お昼ご飯美味しいですよね!」と言うと、「あなたほんとに幸せね…」と呆れられたほどだった。そこはとくに社食に定評のある百貨店ではなかったらしいのだ。

 

百貨店業界の社食といえば、池西(池袋西武)が有名らしく、池西は百貨店として最も厳しいとも評判だった。だから、社食で還元しているのだとか。私はその厳しさも知らなければ、そんなに美味しくはないらしい社食で満足してるのだから、本当に幸せだと思っていた。

 

 

ところが、

 

スタートから危うかった渋谷も縮小の憂き目にあい、私はあっさり移動になり、2つめに勤務した百貨店は宮内庁御用達だった。日本橋高島屋だ。そこはもう何から何まで昭和で、あの壮麗豪華なエレベーターも感動に値するものだった。

 

店の前には靴磨きが陣取り、店内では初老の紳士がご丁寧にも「君の名前を覚えておこう」と店員にお礼を述べ、上得意様は各フロアで両脇にフロアマネージャーを2人引き連れ、手当たり次第に指を差しては「あれとそれとこれとあれも包んで届けて頂戴」と、21世紀とは思えない光景が繰り広げられていたのだ。

品格で言えば、古きよき百貨店文化を守っているのは、日本橋高島屋と銀座三越というのはまんざら嘘ではなさそうだった。

 

 

その世界観で私も『高島屋の人』として勤務することを余儀なくされた。つまり、平場では自分の店の服を着てはならないのだった。当時、きついパーマをかけていた私に高島屋の制服はちょっと無理があり、キッチリしたストレートボブのフロアマネージャーにも「空野さん、シンプル イズ ベストですよ」と優しく声をかけられたりした。

 

ここの婦人服売り場のおばちゃん達は、自由な人が多くて(そして相変わらずお客さんもいなくて)、平場の隅に集まっては井戸端会議がはじまるのだった。

私はそのフロアで一番若く、おばちゃん達の子供ぐらいの年齢だったのか、井戸端会議にお呼ばれし「子供に服を買ってあげたいんだけど、どれがいいと思う?喜んでくれるかしら…」などと相談されたり、化粧を直されたりと、それなりに可愛がられたようではあった。

 

それに、私はどういうわけか人に話しかけられやすく、他の店舗の商品を売るのが得意だったのだ。というのも、平場というのは店の境目がなく、全員が制服を着ているので、お客さんにはどの人がどの店舗の人なのかはわからず、その辺にいる店員に声をかけてそのまま接客して売ってしまうことが起こりやすいのだった。

普通、店員同士は売上を競っていたりするので、そんなことにはならないのだけど、そこは平場のおばちゃんマジックで、代わりに売ってもらえるのならほんと有難いわ〜という世界で、1階のキラキラした世界からは想像できない売り場だった。

 

 

 

そんな中、隣のお店に恵庭さんといういつも往年のビビアン・リーのように横髪をかっちり左右の頭に留めるヘアスタイルで、決して他のおばちゃんたちの輪に参加しない人がいた。

恵庭さんは社食で顔を合わせても、無理に隣の席に座ってくるようなことはせず、少し離れたところで、お互い距離を保ってゆっくり食事をし、コーヒーを飲むタイミングぐらいで静かに話しかけてくるような奥ゆかしい女性だったのだ。

あまり話はしないけれど、その見守られてる感じが心地よくて、私は恵庭さんが好きだった。

 

顔を合わせるうちにだんだん打ち解ける猫みたいにして、私たちは社食でいろんな話をするようになった。私がアメリカに住んでいたことを話すと、恵庭さんも実は若いころに親戚を頼ってブラジルに住んでいたことがあると話してくれた。

 

「それがね、ブラジルでコーヒー農園の手伝いをしてたんだけど、ブラジルって本当にコーヒーが美味しいのよ。いい豆は全部外国に売っちゃって、国内には残ってないんだけど、家庭ごとにブレンドして、その人だけにブレンドして目の前で淹れてくれるコーヒーがとっても美味しいの」

 

「へーー」と、ブラジルのことをよく知らない私にはそのコーヒーの話がとても新鮮だった。

 

 

 

そしてとうとうある日、

 

出だしから転びっぱなしだったうちのブランドもとうとう高島屋から撤退する日がやってきた。そうして、営業担当は今度は私を千葉の店舗に配属しようと思っているのだがどうだろう?それが無理なら配属できる店舗も他のブランドも今はない、と言うのだ。

いろいろ目眩がするほど展開の早いうちのお店のことはひとまずおいといて、私は短いながらも販売の仕事が気に入っていたのだ。知らない人と話すのが楽しかったし、できれば辞めたくなかった。でも、目の前にはこの会社でこの仕事を続ける道は残されていなかったのだ…。

 

 

ずーーーーーーんと沈んだ気持ちで、お昼の社食で恵庭さんにそのことを話すと、恵庭さんはまたいっそう静かに私に話してくれた。

 

「販売の仕事はいつでも戻ってこれるから。私は親の病気で病院通いがあるから、どこか他の場所に行くことはもうできないけど、こんなところにいないで、どうしても帰ってきたかったら、また販売はいつでも始められるから。次のところに行きなさい」

 

顔をあげて、そう言った恵庭さんを見ると切実な顔だった。

私はそこではじめて恵庭さんが好きでこの仕事を選んでいるではないことに気がついた。恵庭さんがここがあまり好きではないのだ。他のおばちゃんたちとは別の意味で、ここにいたくない人だったのだ。

 

いつも静かに、やるせなさそうに売り場でひとり佇んでる恵庭さんにとって、そこがどんな場所だったのか私にはまだわからない。恵庭さんはブラジルでコーヒーを飲んでいるほうがよっぽど絵になるような女性だった。

 

 

 

それから私は販売の仕事には就いていない。

私にはまだこの先どんなことが起こるのかも知る由もなかった。