プロニートの履歴書

色んなできごとに翻弄され、プロのニートになるまでの物語

17. 沈みゆく船から降りる

仕事も恋もなくした私は立ち上がらなければならなかった。「これをバネに」とよくいうけれど、本当にこれをバネにどこまでも上り詰めようと思った。

今や私には制作という技術職の職歴が付いていた。これを活かさない手はない。せっかく大手カラオケ会社のコンテンツのノウハウを持っているのだからと、今度はコンテンツディレクター職を探しはじめた。そうして、『着メロ制作経験者のディレクター/時給3000円』というのを探し当てたのだった。

 

制作の仕事をしていると、クライアントと意見が対立することがある。それはクライアントの方向性と制作の意図が理解しあえない時があるからだ。お互いの意見がぶつかるのは当たり前のことなのだけど、それを解決に当たる人、つまりディレクションする人がまだ市場には足りていない時期だった。なぜなら、クライアントである企業側には専門的な知識を持った人がほとんどいなかったからだ。

 

私にはクライアント側と制作側の両方の経験があった。普通はどちらか一方で、両方の経験を持っていた人は当時レアな人材でもあったのだ。そういうわけで、『着メロ制作経験者のディレクター』というのは、私にうってつけな仕事でもあったのだ。

ただし、ハードルに見えたものは時給3000円と書かれているところだった。いくら技術職でも高すぎる。それは時給3000円分の成果を出さなければならないことを示唆しているのでは・・・と、私はその一点だけが心配になった。

 

私は失恋の痛みもしょったままで、すっかり自分に自信をなくしていたので、正直に「その3000円というのはもっと高いスキルを持った人が求められているのではないでしょうか?」と、派遣エージェントに伝えると、エージェントの人は「それではダメです。ここはポジティブに行きましょう!」と、漫画家の編集者のようなことを言ってくれたのだ。

私も最終的には、「時給3000円の席があるのなら、遅かれ早かれ誰かがそこには座る。そこに私が座っていけないはずはない!」と、気力を奮って面接に臨んだ。ちなみに、当時の平均的な派遣の時給は1200から1300円程度で、技術職であっても2000円を越えるか越えないぐらいが妥当な金額だった。

 

面接の席ではとても調子のいい企画部の採用担当者にめずらしい職歴と妙に気合いの入った私は気に入られ、採用されることになった。ただし、面接では「あの時給は計算間違いでした。1700円になるんですけど大丈夫ですか?」というのが最初の会話だった。私も何かの間違いだと思っていたので、「もちろん大丈夫です」とお答えすることにはなったのだけども。

 

 

さて、そこは100人ほどがワンフロアに席を置く中小企業で、ほとんどが派遣社員で派遣の人ほど働かされ、社員は始業時間から30分は誰もいないのだった。会社に来てはいるのだけど、タイムカードを押したあと、下のコンビニでみんなだべっていたのだ。そして、午後はお決まりのスターバックスでのミーティングである。とても優雅な身のこなしの人が多い中、新しく着メロのコンテンツを立ち上げるので、私はチームのディレクターとして、そのマネージメントを行わなければならなかった。

これがもう…なんというか、今までコンテンツ運営をやったことがない人らが大学のサークルのりでやっていたので、どんなスケジューリングもマネージメントも行われておらず、まずは私は過去の業務を洗い出すところから始めなければならなかった。

その作業は深夜にまで及び、スケジュールを組み、ルーチンを作って、メンバーの仕事を振り分け、整える、そして毎週の更新をスムーズに行わなければならない。私はそこではそれがどれだけ膨大な仕事量になるのかを理解していたただひとりの人材だったのだ。

 

そうして、私は自分に都合のいい週スケジュールを作った。水曜はまるまる何もしない日を作ったのだった。そうすれば急にどんな仕事が舞い込んできても、他の仕事に支障をきたすことなく、自分にも余裕を持ってすべてを回していけると考えたからだった。そして、それは本当にうまくいったのだった。

それとは別に、私にはまだ見えていない部分もあって、それはだんだんと明るみにさらされることになった。

 

 

その会社は財閥系の子会社であることが自慢であった。営業がどこに行ってもまずはその財閥の名前を出し、その名前で信用を築いた。そうして、関係のある制作会社の中には賢くそれを利用するところもあったのだ。

というのも、着メロを作るには特別な機材が必要で、とても制作会社が販売されている端末数に合わせて何台も購入できるような価格ではなかったのだ。大抵の場合、それを販売元からレンタルして制作するのだけど、この会社はそうではなかった。相手会社に言われるままその必要な数の機材を購入してあげていたのだ。

先方からもう必要なくなった機材が返送されてきた時、その機材数には本当に驚いた…。それはパッと見ただけでも1千万を越える機材量だったのだ。「これマジで全部買ったんですか…」と額に冷たい汗をかくほどに。私は売上を把握していなかったものの、そんなにペイできるほど人気のあるコンテンツを運営していないような気がしたのだ。

 

 

それから日を追うごとに、私はなんとなく自分が乗っている船に揺れを感じはじめるようになった。それはどこかに何かがあったわけではないのだけど、直感的に何か感じるものがあったのだ。

 

ふと、コピーを取りながら100人のフロアを見渡した時、私は突然目が覚めた気がした。私はどうしてここにいるんだろう?私は今まで一度もこんな景色を見たいと思ったことはないのに、私は今ここでコピー機の前に立ってフロアを見渡している。

 

なんとなく周りがざわめきだしたような気がして、それからの私は以前にも増して自由に行動するようになった。毎朝3時間遅れて出社し、買ってきた朝ごはんを食べ、仕事中はずっとヘッドホンで音楽を聞き(これは実際、業務内容ではあったのだけど)、そのしわ寄せはすべて採用担当者だった課長へと集まった。彼は私の行いの悪さを一手に引き受け、最後には「もうこれ以上かばいきれない!」とまで言われたのだ。何あなた、私のこと好きなの?と思ったのだけど、そう言われても私はぜんぜん平気だった。

 

秋にさしかかった頃、私は部長にある一室に呼び出されることになった。彼の言葉は忘れたけれど、私の耳にはこう聞こえたのだ。

「この船はもう沈む。危険だからここから一番先に降りて欲しい」

 

それを聞いて私は、口では「まだやることが残ってますから、それが終わってからします」と答えた。でも内心では、「え?ほんとにいいんですか?やっぱりこれ本当に沈みますよね?私、一番先に降りてもいいんですか?」と嬉しくなった。

 

そうして私が船を降りてから1ヶ月後、その船は本当に会社まるごと沈んで行ったのだ。倒産はまぬがれたものの、経営陣の手腕によって身売りという形で落ち着いた。社員もわずかな人を除いてその船を降りることになったという。

どこに失敗があったのか私にははっきりわかる。財閥の子会社であることにあぐらをかいて、とくに社員は何もしていなかったのだ。何もといったら語弊があるかもしれないのだけど、会社ひとつ潰すほどに何もしていなかったのだ。親会社の名前だけでこのベンチャーの海を航海していけると彼らは信じていたのだ。

 

その後、付き合いのあった課長が「空野さん、どうしてあの時あんなことしてたの?」と聞くので、私が「だって、もう船が沈みそうだと思ったんだもん」と答えると、「それはいつそう思った?」と聞くので、「わからないけど、春先になんとなく…」というと、それは実際その頃に経営不振がはじまっていたらしく、社員のほとんど誰も気がついていない頃だったらしい。私もどうしてそれに気がついたのかはわからない。ただ、なんとなく…だった。

 

 

そうして、私はまた自由の海に放り込まれた。