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プロニートの履歴書

色んなできごとに翻弄され、プロのニートになるまでの物語

23. 東京上空からの眺め

私は台湾にいた。

前職を辞めてから1年ぐらいが過ぎていた。私は毎回、会社勤めを辞めるたびに、もう絶対あの世界に帰らない!と、仕事用の服を捨てたり、個人で仕事を受けたり、バイトしたりと、なるべくフリーに近い生活にシフトしようと試みていた。なぜなら、私は自分にはあの世界が合わないと、本当に知っていましたから。
それでも「みんなちゃんとやってるんだから」とか、「つらいことを我慢してる方が偉い」みたいな風潮から、みんなができるなら私にも出来るはず、という諦めもなかなかつかないでいた。

しかし、1年も無職でいると、やっぱね、人は不安に駆られます。経済的にもそうだし、社会的なつながりを感られなかったり、漠然とした将来への不安はそう簡単に消えるものではない。今ならそれを超えてこそのプロニートだと思いますが、その時の私にはまだそうは思えなかった。

  

 

そんな日々を過ごしている頃、イギリス人の友人から「台湾に引っ越したから遊びにおいで」というメールをもらった。彼は私より少し若いぐらいの子供がいる元絵本作家で、離婚をきっかけにアジアを旅して台湾に流れ着き、そこに身を置くことを決めたのだった。

仕事もしてないのに海外旅行という身分なのか…、悩んだ末に以前勤めていた会社の同僚が心理カウンセラーに転職していたので相談してみると、「まぁ、そういう時だからこそ行ってみるといいんじゃないかな?台湾は占いも有名だから行ってみたらといいよ」と言う。
はぁ。。確かにそんなものなのかもしれないなぁ・・・と、意を決した私は台湾に出かけることになった。

台北では夜市に行ったり、茶屋に行ったり、台湾を満喫しつつ、あ!占いもせねば!と、なんとか漢字だけの筆談で辿り着いた占い師広場のようなところには、中国何千年というかなんというか、見たこともない種類の占いがあった。その中から私が選んだのは鳥占い。私の仕事運をカゴに入ったかわいい文鳥が占ってくれるのだ・・・。白い文鳥がクチバシで「よいしょよいしょ」と束になった紙の中から何やら選んでくれる。

その文鳥と姓名判断だか生年月日から導きだされた占いの結果は、「仕事はすぐにみつかるでしょう」とのことだった。もっと多角的に色んなことを言っていたような気もするのだけど、すぐって言われても、どんな活動もしていない人がすぐってわけにもいかないでしょ…と、私は思っていた。

 

でも、それは本当にすぐだったのだ。

占いから友人の家に帰ってメールをチェックすると、その仕事はそこに来ていた。
それは私も忘れていたぐらいずいぶん前に応募していた仕事で、とにかく急募でITアウトソーシングの仕事があって、いつ来れますか?という内容だった。私もまさか日本にいませんとは言えなかったので、1週間後に伺うことをお返事した。そうしてトントン拍子に事は進み、1年ちょっとぶりに社会復帰する新しい仕事は始まった。

 

*よく仕事と仕事のブランクが開くことが心配と言いますが、あまり関係ないと思います。空いてる時間があっても、人はその時間の分だけ人間的に成長していて、仕事的な感覚もパチン!とスイッチが切り替わるように戻るものみたいです。無職の期間がどんなに長く感じていても、その時間は一瞬で消え去ります。

 

 

新しい職場の新宿の高層ビル50階のオフィスからは、東京の西の方一帯が見下ろせ、天気が良ければ遠くの富士山までもが見渡せた。「私もとうとうここまで上り詰めたか…(高度的に)」とは、思いませんでしたが、それでも窓の外は素晴らしい眺めだった。

ここは私が働いた中でも一番大きな企業だったかもしれない。世界中にざっと12万人ぐらいの従業員がいるヨーロッパのグローバル企業だった。IT事業部はお金を生み出す部署ではないのである意味気楽な仕事で、会社の事業内容のことは相変わらずよくわからない。みんな大変そうだけど何か世界的なことをやっているんだろうなぁ、という感じでしょうか。

その大変そうな人たちの仕事の効率を上げるためにIT事業部がある。国内外に何百人も社員が飛び回っていると、パソコンやシステムで困っていることに費やす時間はないのだ。なので、社内SEも迅速に問題を解決し、走り回ることになる。私も走り回るのが好きだった。問題が起こったと聞くと、「あぁ!なんて大変な事が!」と、もういてもたってもいられないのだった。私も日本中を飛び回ることになったり、かといって、地上は遠いので外に出るのが億劫で、毎日お弁当を作るなどちゃんと社会人してたのだ。些細なよくある愚痴ぐらいはあっても、まったく仕事にも人にも恵まれていたし、それに私の席は天国席(と私は呼んでいた)だった。

天国席は部署ごとにわかれたグループの島席から離れた窓を背にした空間のある席だったのだ(普通だったらマネージャークラスが座るような位置かもしれません)。島の不毛な会話も聞こえず、島に背を向ければ、窓の外は広く澄み切った青空。私は仕事で複雑怪奇な問題が起こった時には遠い空を見ながらよく考えた。そうしていると、そんなことはどうでもよくなってくるのだけど、視界がクリアな分、考え事がはかどった。

 

 

そうして、充実していた毎日のまだ寒い春の午後、隣の席の女性が「あ、地震?」と言った。え?と私も微弱な縦の振動を感じた。そう思った瞬間にはドスン!と大きな縦揺れが建物中を震撼した。それは後に東日本大震災と呼ばれる3.11の大地震が起きた瞬間だった。

社内は人が叫び騒然となり、全員が机の下に慌てて潜り込んだ。部屋から飛び出してきたCEOが「みなさん!大丈夫です!落ち着いてください!」と叫んでも、社内で一番偉い人が大丈夫だといっても、そう言いきれないでしょう…と思うぐらいの揺れだった。

地上50階ともなると建物は大きく横に触れ、壁に備え付けられた可動式のキャビネットが大きくスライドしてずいぶん長い間移動し続けた。あまりにも揺れている時間が長いので、机の下にいた私はそんなに怖いことではないような気もして、机の下から這い出して窓の外を眺めると、目の前の高層ビルがゼリーのように揺れていて、そんなにガラスが震えたら割れる…と、見慣れていた窓の外の風景が信じられないほど揺れていた。そんな私の隣では部長が悠長に窓棚に腰掛けて、スマートフォンでビデオを撮影していた(後で聞いてみたら、部長は午前中にCEOとデータセンターに出掛けていて、近代建築の耐震性の話を聞いていたので大丈夫だと思ったと言っていた。よくまあそんな日に限って、偉い人達がタイミングのいい話を聞いていたものだ)。

 

揺れが収まると、私たちは地上に降りることになった。50階から階段で降りるのだから、永遠にも思えるほど遠い地上へ。地上に出ても外は揺れ続け、気が利く人はコンビニで買ってきたチョコレートなどを配り、ほとんどの人は心許なく隣のホテルの広いロビーに身を寄せ、私も知らない人のワンセグでテレビを見ていた。どうやら震源地は仙台沖で、海沿いの町には津波が押し寄せ、お台場では火災も起きていた。実際目の前で起こっていることでもテレビの中で見ると現実には思えない光景だった。それでもその時はまだ誰も何もわからなかったのだ。

 

2時間後には私たちはまた50階分の階段を上がって、終業時間になると誰が言うとでもなく帰宅することになった。帰れない人もだいぶいるようだったけれども、こんな都心の地上から遠い場所で一晩過ごす勇気は私にはなかった。窓の外の海の方では、お台場あたりから黒い煙が上がり、いつもは眼下に見える首都高の渋滞も封鎖されているのか車の姿はすっかり消え、遠目に見える駅にも人の波が押し寄せているのが見えた。それでも私はまだ呑気だったので、同じ方面の同僚に一緒にタクシーで帰ろうと誘って外に出ると、外はびっくりするほどの人通りなのだ。すごい数の人が一斉にどこかに向かって歩いている。タクシーが捕まるはずもなく、私は夜はバーテンのバイトがあったのだけど、きっと店は開けないだろうな…と思って、その人混みに加わって歩いて家に帰ることにした。

 

夕闇の縁日のような人混みの中を歩いていると、歩く人の中にも色んなスタイルの人がいて、完全装備でヘルメットを被った人や、道往く人々に飲食を提供するお店や、コンビニではあらかた品物がなくなっていたり、そこは私の知っている東京の景色ではなかった。
同僚は「俺、あの時死んだと思った。ここで人生終わるんだと思ったけど生きてた。それってすごいことだよね」と、私はそこまで思わなかったのだけど、彼の生きてる実感は私を感動させた。コイツ、生意気なやつだと思ってたけど、本当は純朴ないいやつだったんだなぁ…と。私の家は歩いて2時間ぐらいだったのだけど、都心から離れるになるにつれてどんどん人の数は減っていき、私は途中で同僚と別れたあと、帰り道にあった友人の家に行くことにした。揺れている中ひとりでいたくなかったし、うちにはテレビがなかったので、テレビが見たくなったのだ。

その夜は友人とワインを飲みながら、一晩中消せない壮絶な光景しか映らないテレビの明るい光の中で眠った。一晩明けても変わりない光景を映すテレビに気分が悪くなっても、友人もテレビは消せないようで、私はひとまず家に帰ることにした。家の中も大変なことになってるかもしれないな…と思っていたのだけど、とくに乱れたところもなく、家は普段通りの家だった。

 

そうして、日本中が不安な週末を過ごした後、まだ余震は続いていたものの普通の月曜がやってきた。それでも、それはまるでゴールデンウィーク中にうっかり出勤することになった日のように緩やかな月曜日だった。みんなまだ心ここにあらずで仕事をする空気ではなかったのだ。

午後になって、普段仕事中には鳴らない携帯電話が鳴った。携帯の画面には義姉の名前が表示されていて、電話にでると義姉はどう言っていいかわからないという感じでためらいがちに話しはじめた。

「ハルちゃん…。あっちゃんが死んだの…」

私の兄が仙台で死んだ知らせだった。

 

 

(つづく)