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プロニートの履歴書

色んなできごとに翻弄され、プロのニートになるまでの物語

24. 東京上空からの眺め (続き)

さて、前回から急に慌ただしくなり(ニートですがたまに仕事が降ってきます)、しばらく書いていませんでした。人生、次に何が起こるかは本当にわかりませんね。

 

前回までのお話。

3.11地震で仙台にいた兄が亡くなったと義姉から電話をもらった私は、電車も動いているような、動いていないような都内から神奈川の兄の家へと飛んで行った。

 

月曜の夕方過ぎのことだった。
兄の家の玄関で私を出迎えた義姉は何かを言って倒れるように私を抱きしめた。部屋の奥にはすでに来ていた義姉の両親と何も知らない子供達が2人無邪気に遊んでいた。

兄は地震直後は生きていた。その日、たまたま出張で仙台にいたのだった。電話も電気も止まった仙台の街の交番から電話をかけてきて、自分は無事だという連絡があった。その翌日、兄は死んだ。自殺したのだ。
会社が借りているウィークリーマンションの一室で、ひとり暗闇の中で死んでいった。兄はずっと鬱病だった。その暗闇で何があったのか、その時の仙台の混乱がどんなものだったのか、想像しても私にはよくわからない。
それでも、人が自殺する理由はただひとつ、『絶望』しかない。

 

普通の場合、遠方で家族が亡くなると身内の誰かがそこまで行って身元確認をしてから輸送される。でも、この時は仙台空港津波で水没、電車はおろか高速道路も封鎖されていて、仙台に向かうことも、仙台から遺体を輸送することも、とても困難だった。
それからの1週間、義姉は不安定な状態のまま、誰かに言われるままにあちこちへと電話をかけ、時に半狂乱になりながらも兄を迎え入れる手続きを進めるしかなかった。義姉には電話の向こうで言われることがよくわからないようで、電話を切るといつも呆然としていた。

こんなに家族が集まっているのに、父親だけがいないことを不審に思ったのか、5歳の甥は「なんでみんないるの?ねぇ、パパのことでしょう?」と、聞くのだけど誰も何も答えられなかった。答えられるだけの情報がなかったのと、子供にどう言っていいのかわからないのが半分で、とにかく私たちが兄が死んだことを確認できる手段がないのだった。

 

それから兄の家に居続けた私は、ほとんどの時間を義姉と一緒にテレビでニュースを観て過ごした。テレビでは津波の被害と原子力発電所のニュースで騒めき、関東ではヤシマ作戦が展開されたり、煙も上がる発電所には放水車もやってきていて、ニュースキャスターがこうリポートするのだ。「あぁ!建屋に水が届きません!!」と。最終的には、明日はヘリコプターで発電所に海水を撒くとニュースで言っていた。国家が誇る最高テクノロジーだった原子力発電所に上空からヘリで散水する。それが今できる最善の方法だったとしても、とても21世紀とは思えない光景だった。水…、全然建屋にかかってないし。

私たちは夜のニュースでそれを観ていて、不謹慎にも机を叩いて大笑いした。今まで信じていたものがあっさりと崩れ去った瞬間をライブ映像でテレビが伝えているのだ。義姉は常識的な人だったので、「ねぇ、こんなに笑っていいのかな?」と涙目でいう。私は「今笑える時に笑ってた方がいいよ」と答えるしかできなかった。

(そして実際、その後義姉は2年間ぐらい笑うことはなかった。義姉はどこにもいなかった。どこか遠いところいるような気がした。2、3年経ったある日電話をしてきて、「ずっと今まで自分が白いモヤに包まれているみたいな感じだった」と話してくれた)

  

ところで、地震後、私の職場も大型の自宅待機期間に入っていた。が、私は業務的に会社にいなければならない立場だった。自宅で仕事をしている社員のために、IT事業部だけは会社に来て、そのサポートをしなければならないのだった。私の契約は別の会社からのアウトソーシングだったので、働いている会社の終業規定とはズレがあって、月に何時間だったか決められた時間はそこに座っていなければならないのだった。自宅待機や忌引きをしていては、私の勤務時間が足りなってしまうとマネージャーが矢のように電話をしてくる。
少なくとも関東近辺は日常的な雰囲気ではなく、うちに限っては超非日常な状況だったのだけども、決まりは決まり、というわけらしい。

そんな状況でも電話で「何でもいいから出社しろ」とマネージャーは言う。家族が死んでるのに契約ねぇ…と、ベランダで電話を受けていた私は衝動的にそのまま携帯電話を遠くに投げたくなった。あぁ、本当に何もかも無意味だ。

そうして、1週間後に何とか義姉が手を尽くして兄の遺体が神奈川に戻ってくると、兄は義姉と同じぐらい青い顔をしていた。まだ余震で地面が揺れる中、家の近くの小さな葬儀屋で葬儀が執り行われ、遠くの近代的な火葬場で兄は荼毘に付された。それはあまりにも非現実的な光景でまるで映画を観ているようだった。それを見ながら、こういう映画観たことある…。伊丹十三の『お葬式』みたいだ、と私は思っていた。

 

 

静かすぎる葬儀も終わって、私は職場に戻ることになった。といっても、社内の様子は少し変わっていた。まだ人が不安なまま出社しているのと、社内からは何人もの社員が発電所に飛んでいるようで(どうやら発電所関連の仕事があったらしい)、隣の席の経理ではどこかの発電所にいる人からの請求書がやってきて、毎日長靴や衣服を購入していたり、火力発電所の再稼働まで発電所に足止めされている社員から電話もあったりと、リアルに発電所で何かが起こっていることを社内にいても感じた。

外でもネットでも原子力発電に反対する意見が飛び交っても、私は何も思わなかった。この人たちはまだ誰も周りで死んでないのに、自分が死ぬことが怖いだけなのかもしれない、と思った。本当に家族が死んでから、もうそんなことはどうでもよくなっていた。 日本の未来もエネルギーも大切だけど、私が今一番にサポートしなければならないのは家族だった。

 

多分、私はこの辺りから会社で働くことがよくわからなくなった。その頃は「自分にできる何か」を考えるようになった人が沢山いたと思う。でも、もうその感覚を忘れた人も多いのかもしれない。地震後、何も変わらなかったとは思わない。人の生き方や感じ方の何かを多少なりとも変えたとは思う。ただ、何をしていいのかわからないというのが多くの人の本音だと思う。

 

 

そうして、私はその9ヶ月後に仕事を辞めることになる。

普段から仲の悪かったマネージャーにさらに嫌われるようになり、色んな理由をつけて契約期間が終了されたのだった。私が思うに、解雇というのは社会的地位の剥奪で、あの社会では罰なんですね。ただ、私は仕事を辞めることに慣れているので、そう言われるとショックだけど、なんか…どうってことないというか…。きっと人は純粋に用無しと言われた気がして、落ち込むところだと思うんですけど。

そんなわけで何度目かの退職することになった私もそろそろ潮時だな、と感じた。この雇用の流動性のない日本でこんなに転職する人はそうそういないのだ。周りを見渡してもいないし、友人らも首をかしげる。何かが決定的にどうかしてるのだ。

それはきっと今まで私が見ないようにして向き合わなかった私の生き方なのだ。

 

そう。「辞めてもらう」と言われた瞬間、なぜか私はその言葉を聞いて、これからは自分がやりたいことだけをやる、と心に決めた。ピンチはチャンスと言うけれど、それは本当にそうなのだ。それをやらなかったばっかりにこんなことになっているのだ。

 

やっぱね、逃げちゃダメだと思うんです。逃げていい人もいると思うんですけど、私は逃げたらいけない方の人だったんだと今は思います。

そうやって、道草しながら、色んなもの見ながら、10年ぐらいお世話になったいわゆる社会から離れることにした。そうしてプロのニートになっていく、とね。やっとプロニートの話がスタートするのですが、これは長く険しい道です。修行以外の何ものでもない。はっきり言いますけど、どこかで働く方がずっと楽で有意義です。

 

でも、私は自分の道を歩くことにしました。

未知の道を。

それからはやりたいことしかやっていない。

 

その話はまた今度。